米食の日本にパンがやってきたのは、宣教師や商人達によって16世紀中頃でした。
情報網・交通網も今のように発達していなかったためでしょうか、または異国からの食べ物は
庶民には高値の華だったからでしょうか。普及せず、17世紀に上総国に漂着したフィリピン総督は
日本についての本の中で、「日本人はパンをあまり食べず、値段はタダ同然である」と記しているそうです。
(画像はwikipedia様よりお借り致しました)
そんなパンに興味の無かった日本でパンが注目され、「タダ同然」から軍用食料にまで格上げされたのは
江戸時代後期です。
当時の日本はペリーで有名な黒船が近海に現れ、長く鎖国し太平の眠りを貪っていた日本が騒然として
いた時期でした。「眠れる獅子」と呼ばれた隣国の中国さえアヘン戦争によってイギリス軍に破れ、欧州の
脅威を目の当たりにせざるをえなく、もし外国が日本に攻め込んできたら・・・・・・。
(画像はwikipedia様よりお借り致しました)
外国との戦争が起こるかもしれないこの状況の中で、軍の食べ物も見直されます。
兵法家 江川太郎左衛門は、
・中国のように本土が戦争の場になった場合、ご飯を炊いていてはその煙で
居場所がばれてしまうし、敵味方に限らず大砲の火薬が引火する危険もある。
・さらに米を炊くための水の確保の必要も出てくる。
・保存性が低い
など、日本人の主食 ご飯の兵糧としての問題点を解決する、「パン」に注目します。
そして、1842年4月12日に長崎帰りのパン職人の力を借りて、日本独自の軍用パンを
焼き上げます。
「煎餅など目じゃないくらいの堅さ」の抜群の保存性と、ドーナッツ型で穴に紐を通して
腰にぶら下げて持ち歩けるこのパンは、正式に軍用食料に採用。
明治の文明開化で西洋の本格的なパンが入ってくるまで続いたそうです。
当時のパンを復刻したものが今売られているそうですね。
食べた方のブログで、そのパンを使って釘を打てる!と実演しているのを見て、相当な堅さ
だと思いました・・・・・・・。
◆
今日ご紹介する二戸のパンは、柔らかいですよ。
★ご注文は>>こちら(http://www.supplement-direct.co.jp/item_detail/itemId,124/)
【戦前からの定番おやつ】
『日光ぱん』は戦前から二戸市で愛され続けてきたお菓子。
「ぱん」とありますが和菓子です。
(名前の秘密は下の【名前の由来】へどうぞ♪)
見た目は白砂糖が満遍なく振りかけられており真っ白。
卵、砂糖、重曹、小麦粉を混ぜて作った生地に、餡子をぎっしり包んで焼きます。
焼き上げた生地の表面に砂糖水をまぶし、さらに砂糖をたっぷりとつけて出来上がり。
【名前の由来】
古舘善次郎 著「陸奥福岡物語」という本によると、
『明治から昭和にかけて二戸市に「日光屋」と称し雑貨からお酒・燃料など何でも売っている
いわば百貨店があった。
その「日光屋」で開発した“ぱん”が、たいそう贅沢な食べ物で人気があった。
「日光屋」の“ぱん”というわけで、いつの頃からか「日光ぱん」となった。』
とのこと。
日光屋を開いた高畑栄次郎という人は、栃木県日光出身だそうで、そのため屋号が「日光屋」
になったと考えられています。
【誕生のきっかけ】
何でも取り扱っていた「日光屋」は、砂糖の卸売りも行っていたそうです。
明治時代の当時まだ馬車で荷を運んでいたため、天候や道の状況などによってでしょうか、
卸せないような砂糖や、売れ残ってしまった砂糖があり、それをどうにかできないかと考え
ました。
そして試行錯誤の末、砂糖をふんだんに使った『日光ぱん』が誕生します。
売れ残った砂糖を使っていたことと、当時は人件費がほとんどかからなかったために当時
高価だった卵や砂糖をふんだんに使っていても、庶民が購入できる値段であった『日光ぱん』は
お土産や滋養強壮がつくとしてお見舞い品として大ヒットしました。
◆
「日光屋」は昭和初期の不況の影響で閉店してしまっていますが、その製法は受け継がれ、
現在は二戸市内のほぼ全てのお菓子屋さんで作られています。
誰かと食べると盛り上がること間違いなしです!
▼アレルギー物質の特定原材料について 卵、小麦、乳
砂糖 内容量:5個入 商品番号:B00065-01 価格:580円(税込)
黒ごま 内容量:5個入 商品番号:B00065-02 価格:580円(税込)
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